公立へと高校からやってきて感じたデメリットや不安

 私立と公立の学校を経験したからこそ、わかることが色々あるとは思いますが自分の場合は高校からでしたのでデメリットや不安について話しましょう。

 まず知っている人が周りにはいません。物凄く心細いし、不安や緊張感に苛まれます。一方で周囲は違う中学校だった人同士で多少の不安はあるのでしょうが、同じクラスに小中時代から知っている人がいて心強い同士がいるし別のクラスにもそうです。彼ら公立の人たちは仲間たちが引き継がれてきているし、そうでなくとも近所には小中学校が一緒だった人が変わらずいるわけです。

 私立から近所の公立高校へやってきた僕はいくら近所に同級生が200~300人いるとは言え彼らのことは知らないし所詮は余所者です。言語が同じ日本語でも、何処か違う国からやってきた人に近い思いを感じました。

 当初は緊張や不安で固まっておりましたが、普通に話シをしてきてくれる人が居てくれて非常に助かりました。ただ、それほどお互いに知っているわけでもないのに普通ではなくラフな感じの人が少なくはなく戸惑いや不安を禁じえないケースも多かったです。それで距離感の分からない人たちがいて、恐怖を感じ誰か助けてと昔の僕を知る人たちの顔を思い浮かべ心で声をあげていた時もあります。また何言ってくるんだろうと怖かったです。その人たちの勝手を知るはずがなく、普通に言葉を返す以外ありません。しかし、僕は知らない人しかいないところへやってきたのもゼロからやり直したいという思いからでした。知っている人の何人かいる私立高の入試に合格し行くことも可能でした。しかし高校からは公立へ行くと決意していたし知っている人の何人かいるところだから微塵も行く気はありませんでした。新たな門出をきる為にもです。

 不安やデメリットも強く感じましたが、それと同時に初心を取り戻せた様な気もしました。知らない人に不安や恐怖を感じさせない様にする、優しさとか節度です。何とか何人かと話せるくらいにはなったし、それだけでも公立へやってきた価値があると思いました。その喜びは忘れられなかったし、だからこそ油断し気が抜けてしまったと後々気づくと悔しくなったりしました。

信頼と意思疎通

 スポーツでもバラエティトークでもそれぞれが好き勝手動いたり、それぞれが好き勝手言っている様に見えるのは仕方のない事でしょう。そう見せるのがプロの仕事であり、何気なく特別で変わった事ではないように見せるのがプロです。

 しかし、彼らには組織という意味で纏まりがあり適材適所で各々の立ち居振る舞いが存在しています。組織という事はグループであり、乗せて行く仕事の流れ、進んでいく方向があるのです。バラエティトークでも話しのテーマが大まかに決まっており、それに沿って各々がそれぞれの立ち位置から語り、語りというパスが各々に回されていきます。司会者が上手く拾い上げ、オチをキチンと付け収束するのです。そうやって大まかに定めた方向へ流れを作り、乗っていくのです。

 スポーツなどではチームの勝利を目指し、各々が勝利のために必要な事を最も出来る守備位置にてゲームの流れを作り、乗せて行こうとします。

 しかし、ボールを強く蹴ったり投げたりはお互いの信頼関係がないと出来ないしそうでなくては対戦相手に勝てません。バラエティトークだと視聴率などがありますし、その為にも信頼関係や意思疎通がなくては楽しい番組を追求することができません。

 しかし、そんなシビアな状況でない場所やタイミング、信頼関係や意思疎通や連携のない中での弄りやボールを強く蹴る投げるはイジメでしかありません。お互いの勝手や連携を把握しておらずどう返せば良いかなどわかりようがありません。

 現状、何処かの居酒屋で格闘技をTVで見た人がその選手になりきったつもりになってしまいその人が格闘技を知っているかどうかわかりもしないで技に出てしまう人がいると聞きます。弄りをあっさり面白いと勘違いし、バラエティの司会と勘違いしてしまう人がいるとも聞きます。その番組を知っているかどうかを相手が知っているかどうかどれくらいお互いの勝手を把握しているのかその辺すっ飛ばしてしまう様ではイジメです。お互いに勝手を知っているかどうか信頼関係があり連携を把握できているかどうかがイジメなのか違うのかの分け目です。

ただ球数制限や健康管理がどうたら言って変わるわけではない

 岩手県高校野球大会で大船渡と花巻東の決勝がありました。MAX163km/hを計測し、日本を席巻した佐々木朗希投手の登板はなくその決断の是非についてお話ししましょう。僕はその決断は英断で賢明であると思いますし、是非について報道各所で取り沙汰されているだけでも正しいモノだったと思います。

 それをキッカケに指導者やプレイヤー各々が一人のプレイヤーを守ろうとすることは至極当然と考え、その為に日々出来る事を考え取り組んでいけたらと良いのではないでしょうか。しかし、どれだけのプレイヤーがまたは指導に当たる人が健康面での正しい知識や気構えを持っているのでしょうか。プレイヤーも正しい知識が要るとは思いますがそれを伝授する投手コーチやトレーニングコーチがどれくらいプレイヤーたちの周りに常駐しているのでしょうか。

 僕としては題名のとおりで、投手コーチやトレーニングコーチ、メディカル面での知識や実践を含めた訓練を受けたスタッフが一人でも多く必要だと思います。日本全国で一人でも多くの人が私立の強豪から公立までこうした教育がされるべきです。特に投手は酷使を避けるのはもちろんですが、幼少期から一人でも多くの子どもが正しいフォームや健康面での知識を教えてもらえる事です。元プロがアマチュアで投手コーチをしたりトレーニングコーチなどがいいとは思いますが、現状のプロアマ規定ではどうですかね。

 

自分の心で感じたままに決断するということ

 自分の心で感じたままに決断し、環境をそして状況を変えて新たに再スタートを図ったり、またはどうしようか考えた事は誰しもがあると思います。僕も決してその例外には当たりません。自分はかつて私学の小中と籍を置いており、人間関係という点で躓いてしまい、このままでは状況は変わらない時間だけが過ぎていく一方だと思いました。  そこで僕は両親に近所の公立校へと行かせてくれないかと話しをしてみました。ところがあまり僕が本気にしていると全然思っていなくて、僕の心の声を意思を本気で確かめてみようとしている様子はありませんでした。そこは今でも残念に思っていますし、子どもの意思を本気で確かめようともしないのは親としてはどうかと思います。

 しかし、その時の僕にも反省しなくてはいけないことはありました。土下座して頭を下げてでも必死に懇願する、覚悟を示すということをしなかったのです。自分から頭を下げるケジメをつける、自分の心の声を誠意を持って態度を示さなかったところに僕の過失がありました。もちろん、交友関係で間違いを犯してしまった反省もあるしそれを踏まえもう間違いはしないという気構えも伝えるべきでした。しかし、今思えばそれを知らない当時の僕の底の浅さは悔やんでも悔み切れません。

 心で感じたままに決断する、実行に移すということは誠意が居るしわかりやすい形で示さなくてはいけません。もちろん覚悟はいいということもそうです。

 ただ、親であれば兄弟であれば自らの意思、誠意、覚悟というものを子どもに教えるべきだと思います。例え代償やそのほかリスクを覚悟してでも本当に自分の下したい決断、自らの意思とはなんなのかをはっきりと示すということをです。うちの両親をそれを教えなかったし確かめようと思っている様子も見られませんでした。まるで真摯さや直向きさというものがなかったのです。

 それが僕の両親の罪であり、僕はこれらを真似するわけにはいかないと今でも思っています。僕が本当に伝えたり継承させなくてはならないことだと思っているのは、真摯、意思、覚悟、誠意、思慮、気配り…です。良かれと思っていたのか、それとも適当で何も考えたくなかったのかどうかは知りませんが子どもへの本気さや必死さを伝えようとしている直向きさは長い目で見ると必ず伝わります。それには精神的な強さが欠かせません。これらは教える事が難しいのでしょうが、その人に生き様や精神にかけてみましょう。芯を守り通す、筋を直向きに通すのも難しいかもしれませんが無理やりにでも通させた方がいいと思います。これらは肌で感じる学ぶ部分が大きく、教えて身につくものではありませんからね。

初心に返ってみよう

 初心に返ってみようとよく聞くと思いますが、ここでは何処かしらの空間での人間関係という意味での話しをしていきましょう。何処かしらで自分らだけが面白おかしければ良いペースも早い、それについていけず置き去りにされていて心細くなってしまっている人を見かけたことはありませんか。僕はやたら気安く話シしてくる人よりもそっちの方を気にします。それは気まずい雰囲気で、誰かがどうにかしようとするモノだと思います。

 やたら馴れ馴れしい人が居る中で、人間関係の初心に返れる、一旦恐る恐る緩いペースで話しをするのもとても良いルーティンワークなのではないでしょうか。ただ、自分がその人が置き去りにされていて気まずいからどうにかするという意味ではなく、落ち着いて恐る恐る、緊張感が若干ある雰囲気も時々触れておくことも良いです。

 少し話されたからといって、向こうがペースをあげてくるのであれば落ち着かせて上げることも大事です。そこまで打ち解けているわけでもないし、向こうも置いて行かれたくないという思いも少なからずあるでしょう。でもそう焦らなくとも置いて行ったりはしないさという安心感や落ち着きを与えてあげることが大事です。

 大体の人は高校では近所に仲間のできる喜びを忘れてしまっているのかもしれませんが、僕の場合は高校が初めての公立でしたのでその喜びを摑みとりたいという思いがありそして置き去りにされる不安や焦りそして距離感のわからない人相手に戸惑いを感じたりということを肌で感じたこともあるし心に残っています。

 人間関係とか距離感とかその人とのペースを慮ってあげることが大事でそれを忘れずに心がけたら本当に心から助かる人が身近に出てくると思います。是非ぜひ、初心を忘れず時に初心に返って落ち着いて思考整理をルーティンワークにしてみてください。

とんだ心からの勘違い

 どこにでも自分のことを面白いと、そしてそんな自分と自分の居る空間は楽しいと勘違いしてしまった人が居ることでしょう。自分の高校でもそんな人がいました。僕は『コイツは自分は面白い人でそれでこの場は楽しい』と勘違いしている人だと把握することに時間はかかりませんでした。自分はこれで面白いと思いはしても、それで相手や周辺はどう思うのだろうか、など疑心暗鬼さや慎重さなどは普通心がけるはずです。でも自分に対し、人に対し何の疑いもない迷いもなく自分のことを面白い人だと勘違いしてしまっていたわけです。

間近で親しみを感じる人相手でも礼儀や節度があるわけです。自分一人で勝手にペースをあげられてもそれは相手はどう合わせたり付いていけば良いか分からず困ります。

 僕の場合、高校から公立へ行くこととなり高校では知らない人しかいませんでした。もし最寄りの公立の小学校や中学校でしたら近所に仲間が居てある程度引き継がれて行ったのかもしれませんが近所に仲間すらも居ませんでした。他の人たちは小学校や中学校で同じだった人が何人か引き継がれてきており、違う高校へ行った仲間も近所にいるわけでした。向こうは知らない人しかいない空間を経験したことがなく、そして僕は知らない人しかいない状況だったのです。

 周りは自分のことをよく知っている人しかいないと、初心を忘れ浮かれてしまい勘違いしがちではないでしょうか。ですから、同じ人と毎日何年も居合わせていたとしても初心を忘れないでください。人が言わないからとって油断はできません、自ら常々大事にしなくてはならないことや守り通さなくてはならないことを心がけてください。

目先の感情や雰囲気に騙されるな

 私が半生を通してこれは大事だと思えるのではないかと感じたことを伝えて行こうと思います。今回は題名通りのことです。

 目先の感情というと、例えば聞こえのよさそうな言い方、今更いうことでもないことをまるでセンセーショナルな発見のように大それた言い方を装うということです。目先の感情でその先へとすんなり流されて行かないようにしましょう。目先の感情というとその言葉通り目先のことで、長い目で見ると損失にもなりかねません。

 そして雰囲気はというと、それ自体はよくとも全然こちらにとって得する情報もなく時間ばかりが無駄になりがちであるということです。雰囲気はよくても、何も得する情報もない知見や教養もない人は時間の無駄であると判断し、自らのそれらには自分一人でも積み重ねて磨きをかけ自分にとって得する人に近づけ、尚且つ近づこうとする人にとって得する人になるのです。そして自分にとって時間ばかりが勿体ない人から遠ざかっていくのです。

 言ってみれば目先の感情や雰囲気に惑わされることなく、論理と思考によりこれからの半生に向けて積み上げ繋げていくのです。教養や知見もそうですが、佇まいや自ら守るべき礼儀や節度、一般常識も忘れないように心がけていくのです。